2012年2月18日土曜日

かしこい生活


ジェフ・クーンズ Jeff・Koons
1955年生、アメリカ出身

ジェフ・クーンズの作品はしばしばシミュレーショニズムと
カンテゴライズされたりする。

シミュレーショニズムと呼ばれる美術のムーブメントを詳しく説明しようとすると、
なかなか、長くなると思うが、簡単にするならば、
1980年代、時代が現代になり、大量生産や、コンピューターの発明と普及により、
オリジナルとコピーの区別がなくなるのでは
という問題定義がされたなかに生まれた運動で、
様々な物を、
切り取り、くっつけ直したり、
混ぜこぜにしてみたり、
引用してみたり(よくパクリでは?と言われる)、

音楽で言うともっとわかりやすくて、サンプリングとか、リミックスとかをする事だ。
これをビジュアルアートの中でやる訳だが、
もちろん、見た目を切って貼って、混ぜて、引用したりするのだが、
その他にも、本来、物が持っていた「意味」をまた、切り貼りしていく。
ビジュアルの部分もまたそうだろうが、
意味を引用して切り取り混ぜ合わせてしまうと別の物が生まれていく。

ジェフ・クーンズの作品はそう言う手法を使っていると言われる。


Refference/参照
(http://www.moma.org/collection/object.php?object_id=81173)


スリー・ボール・50/50・タンク(Three Ball 50/50 Tank)と言うタイトルの作品。
水槽の中にホルムアルデヒドを半分まで入れて、
そこへ、バスケットボールを三つ、半分まで入れる。
バスケットボールという中に空気が入ったボールが水面に半分入っている様は、
バスケットボールは肺の意味の代わりを担い、水面に半分入る様は死のシンボルなのである。
そして、もう一つのイメージとしてバスケットボールは子宮をイメージさせるのだろう。

さらに、クーンズの作品では、バスケットボールは他の作品にも度々登場し、
少年の夢のような意味を持たせられたりする。

ジェフ・クーンズについては書こうとすると物凄く長くなりそうなので
ここでは初期作品だけの紹介になるが、
ジェフ・クーンズは美術の世界で認められ始めた時に、
すぐにイメージ・コンサルタント(アメリカ大統領選などでも候補者が各々雇う
イメージの管理をするような職業)を雇い、
普段はスーツ姿で、
まさに彼自身が
有能なビジネスマンのようなに
ジェフ・クーンズ像(美術家ジェフ・クーンズという「意味」)
を構築しているのである。



”重要なのは、みんながかしこく生活する事なんだ。”


2012年2月17日金曜日

魔界へヨウコソ


永瀬正敏
Aの記憶~永瀬正敏がみた青森~をテレビで見た。

見慣れた青森空港に永瀬正敏というモンスターがいるってのが
非現実過ぎるー、なんかいつもより空港がお洒落に見えるぅ

番組は永瀬正敏が巡った青森の風景を流していく。
職人の技、震災後の八戸の港、
青森出身のフォトジャーナリスト澤田教一の家、
そして、青森の自然とアートの融合と題して、
行合岬の崖の上で高校生を、
青森県最大の湖おがわら湖で踊る女性、
廃工場で少女と球体関節人形。
青森の鬼才、寺山修二主催の天井桟敷を再現したスタジオ撮影。
そして、トンネルの中で津軽三味線を引く二代目高橋竹山。

三味線の音がじゃわめくなか、永瀬が巡った青森の自然風景が映し出される。
印象的だし、やはり青森ってこの自然の絵と三味線の音ってのは
随分よく合う。

などなどなど
どんどん企画を出して行ったみたいで、どんどん取っていく。
三回くらい季節をずらして、青森を回って写真を撮ったらしい。
青森の人は純粋だと、感想を言っていた。

永瀬正敏が影響を受けている祖父は写真館を営んでいたようだ。
そこで、記念写真やポートレイトをとりつつ、写真に向き合っていたらしい。
その影響の為、永瀬自身もポートレイトを
青森の町々で出会った人々をもまた撮っていく。

その写真をみて、青森の随所で撮った物もそうだが、彼は人物を撮る。
永瀬はまた、ファッション雑誌に連載を持つ、ファッションフォトグラファーだ。
写真の専門はファッション系で、そこでももちろん人物を撮る。
服を主役に人物もまた撮っていく。
それは彼の祖父から脈々と繋がる行為なのだろう。
祖父からの影響でカメラを始めた事を永瀬は遺志を継ぐと表現した、
彼の祖父はカメラをだまされて、写真館はつぶれてしまったらしく、
それをまた、DNAのリベンジとも表現していた。

今回のテレビ番組で、僕が感じたのもまた
青森を主役に人物を撮っていく永瀬正敏だった。


番組の最後で、彼が青森での写真展の企画を依頼された時に
最初に浮かんだイメージだという
雪の上に寝転ぶねぶたの衣装をまとった女性が撮影されていた。
まっ白い雪の中で赤黄青の色をまとった女性が
妖美に寝転がっているのは鮮やかだ。

「ああ、妖怪とかモンスターとかそんな感覚だ。」と僕は思った。
彼が撮った青森はもしかしたら魔界なのかもしれない。
寺山修司という怪物がいて、
強烈なイメージを青森が持っているというのもあるし
元来、永瀬正敏がとるファッション写真も、
妖美な写真が多いみたいだというのもある。

でもでも、見慣れぬ物を見慣れぬ技で創り出す職人や
真っ二つの船が散乱する港、戦いの中、亡くなったというジャーナリスト、
崖の上に明かりをもって立つ黒ずくめの少女達、
水面で踊る女性、廃墟で人形と遊ぶ未成熟の少女
そして、天井桟敷に、魔界特有の弦楽器の音。
ポートレートは魔界の住人達なのだ。

魔界というのは少し突拍子もないの言葉だが、
永瀬正敏が見た、そして、切り取った、青森というのは、
やはりなにか異質な土地だったのかもしれない。

そういえば、みうらじゅんもまた、青森はファンタジーだと言っていた。
http://www.1101.com/shimaguni/jun/2008-01-20.html

あと、タイトルについて、Aomoriの記憶だろうと単純に思っていたが、
色々含みのあるタイトルだった。Another worldという意味のAnotherのAも入れたい。

”番組タイトル「Aの記憶」については
「“A”は青森のA、ABCの最初のA、アートのAといろいろな意味がある。
可能であれば死ぬまでに全部の県を回りたいと思っている。
今回はその最初の一歩で、きっかけを頂いたAでもある。
僕にとって一生を懸けて撮らせていただくテーマを与えていただいた」
と番組への思いを寄せた。”
http://news.thetv.jp/article/27940/



2012年2月16日木曜日

透明人間の作り方


Jin Young Yu ジン ヨン ユと発音するのかな。

ユがファミリーネームで、ジン ヨンがファーストネームかしら。
韓国出身の彫刻家。

reference/参照






彼女の作品は、PVCシート・ポリ塩化ビニールのシートを、石膏の型の内側に貼って熱して石膏型に馴染ませて形を取る、なにやら強度とか心配な慎重な作業を想起させる作り方。

およそライフサイズの人体なのだが、
体のPVCの部分が透明になっている。
見えない人々、作家自身も誰かは知らない人々。

メインのテーマは、透明な存在らしい。それは、存在してもいないし、していなくもない存在。
この人々は社会などから疎外されて、憂鬱そうな心情の人々。
そして、この彼らの様な状態には、誰しもがなりうるのである。

その像の表情は涙を隠す様に、何やら印象的なマスクのような奇妙な表情を装わされているらしい。








面白いのは、展示の際には
これらの人々はコーナーや、もしくは何かの影になる場所に設置されて、
観覧者はその展示の場に入って一瞬はどこに何があるのかわかりづらいように設置、配置されていたりするみたい。

また、作家自身も、引きこもり気質というか、外に出るよりお家で制作してたい。たまに飲み会やパーティーなどに招待されて行っても、彼女の作品と同じくコーナーに居座って、早く帰りたいなぁなんて思ってるみたいなことをインタビューで語っている。

まさに作家自身も、透明な存在で見えない人なのだろう。
という事はある種の自画像的な要素もあるのだろうか。

僕は何よりもこの透明な素材が気になった。透明人間に興味があって調べてた時に出会った作品。その作家自身が透明人間だったのだ。



2012年2月15日水曜日

記憶の空間


アントニ・ゴームリー Antony Gormery
1950年生、イギリス、ロンドン出身


reference/参照




ゴームリーの作品は人をかたどりして
それを石膏や鉄などの素材で形に直す、人体彫刻に見える作品だ。

しかし、それは人体という「空間」を意識した作業であり、
例えば、ゴームリー自身を石膏像に置き換えた時に
その彫刻の中には、ゴームリーが居た空間が出来、
ゴームリーの精神や思い出や色んな物が詰まっていた空間を
再構成した物がそこには出来上がる。

そして、
その思い出が詰まっていた人体という場所であるゴームリーの作品は
世界中いたるところに展示してある。

僕が行った事のあるエキシビジョンでは
小さな部屋の床から壁から天井から
その人型の境界線をもった場所・空間が生えていた。




そしてそして、もう一つ、ゴームリーの作品。
ロンドンのナショナルギャラリーの前の
トラファルガースクエアーには四つの柱(台座)があるのだが、
そのうちの三つは、詳しくは調べてないが神話や歴史的英雄の像が
柱の上に展示されている、
一方、その中の一つには毎年、現代のアーティストが作品を展示している。

2009年、アントニー・ゴームリーが選ばれ、展示したプロジェクトは
会期中100日間毎時交代制で深夜も一度も途切れる事無く、
応募して選ばれた市民がその柱の上に登り、
まま、何をしても良いのだが、
演説する人、踊る人、一時間という持ち時間中座って本を読む人などなど
総勢2400人がその柱の上に居続けた。


作品名は 「One and Other」

この柱(台座)の上に2400人が交代で作品に。




その意味を推測するに、まず、ゴームリーの作品は
その会期中ずっと柱の上に確かに展示され続けたという事である。
そのアート作品が置かれる場所に、代わりに人が居続けたのである。

人という空間の代わりにかたどりした人体彫刻を作った手法の
簡単にいえば、逆の事をゴームリーはしたんだなぁと
僕は思った。
それを想って、本を読んでるだけの人をみると
ゴームリーすげーってなる。
読書してるだけなのに。


まま、正確には、人が交代している間は柱の上には
作品がなくなる瞬間もあるが、
人を上に運んでいるクレーンが動いてて、
それを見ているのも面白かったが。



クレーン。

交代中。



2012年2月12日日曜日

知覚を揺さぶられて



エラッド・ラセリー  Elad Lassry
1977年生、イスラエル出身、ロサンジェルスで活動している作家、写真家


reference/参考
http://bit.ly/A4FF5J

彼は主に映像、そして、写真を使って制作をする。
それは写真や映像という媒体を上手く使った表現だ。
例えば、異なるイメージを二重に一枚の紙に写して
ぶれるような、透けているようなイメージを見せたりする。

彼のテーマであると思われる、知覚や認識という現象を
現代生活のありふれたイメージの表層を使って
それらを複雑に組み合わせるのである。

作品自体に描かれる物は様々だ、ポートレイト、静物、風景などなど
あまりに様々な種類があり、
一見して、どんな仕掛けがあるのかわからない。

しかし、
例えば、赤と緑に区切られた背景の中に緑の服を着た女性に赤いフレームのポートレイト


鮮やかな紫の背景に二匹の猫と紫のフレーム


赤の背景に三匹の魚に赤いフレームの静物

曇天の中に一本の木それに緑のフレームの風景

などなど、一枚一枚の写真をみていくと
すべてに様々な対比というかコントラストが表されているのはわかる。


 




しかし、その横にいきなり
キャビネットが設置してある。確かに赤と緑の対比がある。



それでもなおこの展示の空間には違和感のような物があり
なんとなしに作品からぐっと離れてみていると気付く。


すべての写真の作品、そしてキャビネットまでが
同じ大きさで同じ高さに設置してあるのだ。



そうして、見ていくと、
同じ大きさなのに、暖色か寒色かで印象に差が出たり
キャビネットは奥行きがあるので作品の下に落ちる影が深かったり
テカテカ光る紙に印刷された物やそうでない物、
そして、写真の構図や描かれる対象によって、
同じなのに違うというか、
違うのに同じみたいな。
同じ高さに同じ大きさなので
すごく整列されているのだが、
あまりにも多種多様な対象が描かれていて
同じアーティストなのかと最初は思っていたのを思い出したり、

まさに知覚や認識のあやふやさを刺激させられる。
一つの作品で完成するのではなく
やはり、一つの展示で完成する作品なのだろう。


異なるイメージとイメージを重ねたた時、
その解放しようとされようとする働きは同一化に向っていくとい事なのだろうか

すごく不思議な展示。というような印象だ。
ただ、
作品自体に共通の物語があるわけではないし、
なんていうか、
これは作っていて楽しいのだろうかとか
考えてしまった。
展示自体は最高だったよ。



象は何を考えてたたずむのだろう



STEPHAN BALKENHOL  シュテファン・バルケンホール

1957年生、ドイツ出身の木彫作家。 参照(http://bit.ly/xiqLL8


具象表現だが、必要最低限の人体彫刻、

ノミ後が印象的な木彫彫刻。




抽象的な具象というのか、

実際に彫り出された像は、エブリマンと呼ばれる、
誰でもなく、誰でもありうると言う意味合いの、
白シャツにズボンでなんの特徴もない立ちのポーズの男性像だったりして、
個性が無いのに個性的であり、いるのにいないかのような存在感だ。









その他にも象の頭をして体はまたシャツにズボンで
ポーズもなし特徴のない、感情もなさげのエレファントマン
しかし、この彫刻の圧倒的な存在感はどこからくるのだろうと思わせる。



そして、その答えはやはり素材の力によるものらしい。



"特定の物語を持たないバルケンホールの作品は、彼が素材に徹底的に向き合っていることをも感じさせます。鑿(のみ)あとや、ささくれにそのまま彩色が施された作品は、繊細かつ力強く、彼が自発的な作品の生成を重要視していることを示しています。"




木という素材は、何かとそれだけでずるい、
というのは、やはり温かみはあるし、
生命感も多分にあるし、個性も出やすい。

そして、その木を、
ミニマルな具象彫刻に置き換えた事が
バルケンホールの意向にも繋がるのだろう。



2012年2月11日土曜日

たまねぎ剥き地獄

宝誌和尚立像という仏像がある。
十一面観音像とかと同じくらいインパクトの強い仏像ではなかろうか。





どこで知ったかは忘れてしまったが、
そのサナギから生まれる途中みたいな姿に、画像をみた瞬間参った覚えがある。
サナギから出きったらそこにはどんな無茶苦茶な形が出てくるのだろう
とかそんな印象だった。

何故こんな姿かというと、正解は
伝説があって、中から仏が出てきたらしい。その意味は人間、誰でも心の中には仏がいるのだという事、という所か?要約してしまうと。

なのだが、
僕にはあまりにもその狂気のイメージが強い。

剥いても剥いても無限に出てくる仏の最初の一剥き目なのかも知れないじゃあないか。
無限に有難い物が出てくるというのも恐怖と言えば恐怖だ。
外側から内側が出てきてその内側からまた内側が出てきて、出て来続ける。
人には内側なんてないんだよといっているかのように。

深読みは自由だ。何も考えないよりは良いのだ。そうだそうだ。