2012年3月6日火曜日

制作したいが体が動かないなぁ



ロンドンにあるマダム・タッソー館の新しい展示に新しく加わった、
飛び込みの選手、トーマス・デーリーの蝋人形の制作過程。

今宵は少し、濁しての更新。

2012年3月5日月曜日

グロはお好きですか



ジェイク&ディノス・チャップマン Jake & Dinos Chapman
1966年と1962年生、イギリス出身の兄弟

チャップマンブラザーズはそのグロテスクの極みの様なセンセーショナルな作品だが
ターナー賞にノミネートもされたYBAsの枠に入る作家だ。

その作品は子供のマネキンの鼻を男性器に挿げ替えた一見ピノキオの様な彫刻や
戦争時の地獄絵図を30000個の小さなフィギュアを改良して作り上げたジオラマなど、
奇形や戦争、恐怖や暴力といったセンセーショナルなイメージで
政治や宗教や道徳などのテーマを再構成して問題をあぶり出すスタイルである。




特に最初、例えば、マネキンならば後ろ姿は普通の子供の姿、
ジオラマも一見、山や川の大地の起伏が見えるのだが、
近づいてみて、世界がガラリと変わる、
裏の意味を持たされている様な見せ方なのである。




もう一つ、有名な作品で、出土された古代のアフリカの民芸品の様な形なのであるが
良く見ると現在の資本主義の代表格のマクドナルドのMの字が入った作品などは、
資本主義の終わりを暗示したのだろうかといった具合になり、
そのユーモアが受けているのだろう。



タブーへの挑戦もまた一つのテーマだろう。
美とはなんだという揺さぶりは、グロテスク表現へとつながる。
先の彫刻は、
子供というイノセントな素材に、性器を付けたら、
良いのか悪いのか評価をされる前に、
エキシビジョンの最中、18歳以下には見れないような
対応になった。
美術作品なのか、卑猥なただのマネキンなのか。

そして、彼らも二人の兄弟で一つのアーティストになる。
どちらが表でどちらが裏、という境界はないだろう。




2012年3月4日日曜日

孔があったら覗きたい



桑原弘明 Hiroaki Kuwabara
1957年生

桑原弘明はスコープが付いた綺麗な箱を作る。
スコープってあの望遠鏡の見る所。それを覗くと、中には
ミクロコスモ(小宇宙)の風景が広がっている。

“僕は物を小さくすると魅力が増すような気がして仕方がないんです。
それと僕にとっては重さがすごく大事。
ある程度重くて小さくて魅力ある固まりみたいなものを作りたいと思っている.”

reference/参照
(http://www.gallery-tsubaki.jp/interview/061209a/index.html)

画像参照(http://www.edogawa-art.jp/scope/index.html)

真鍮で出来た綺麗な箱はそれだけで存在感があり、
僕は持った事触れた事はないが、適度に重さがあるらしい。
そして、スコープを覗くと幻想世界がそこにある。
椅子、テーブル、窓がある部屋の中に、
髑髏やバイオリンや壁掛けの絵画が妖しげに置かれている。
その箱の中の部屋は、箱に取り付けられた数個ある穴から
懐中電灯か何かで、箱の外から光を順次あてる事で、
中に差す光の光量が変化して、
朝から昼間、そして夜へと時間の変化があったり、
壁掛けの絵画が透けて何かが浮き出たり、
しかけがある。


この箱の中に広がる世界は、もちろん触れる事は出来ない。
箱を開けて中の物をつついたりは、作品を破壊しない限りできない。
あるのにさわれない、スコープで覗くと言う体験には、
潜在的にそのような意味があるような気がする
盗視のような感覚。
箱の中のそれを盗視するとは、どういう意味だろう。
先に使ったミクロコスモ(小宇宙)という言葉は、
マクロコスモ(大宇宙)の反意語であり、宇宙という意味の反意語である。
ということは、ミクロコスモとはともすれば人間という意味合いも持つ。
箱はそう、頭蓋骨なのかも知れない。
脳の中をスコープで盗視するような感覚。

見ていいのかな。なんて躊躇があるくらいで覗きたい。





2012年3月3日土曜日

戦闘機に乗って初デート


フィオナ・バナー  Fiona Banner
1966年生、イギリス出身

言語という記号からイメージを作る
フィオナ・バナーは、2001年ターナー賞にノミネート時は、
その言語風景と表現したらいいのか、
アルファベットで表現された作品を作る女性作家だった。
言葉という細かく正確に伝達するには、優れているが、
同言語圏以外の人には伝わりにくいメディアを使い、
その言葉の記号的な役割を最大限に引き出し、
記号からイメージを引き出す、引き起こすような作業でもって作品を完成させてきた。




例えば、それは戦争映画を全てテキストにおこして、
そのテキストを一枚の平面に整列させたモノや
巨大な円柱状の黒い彫刻作品があると思えば、それはピリオドを表していたりする。
特に映画をテキストにおこす作品は、映画という約二時間の時間を
一瞬で観る事の出来る(内容を理解出来るかは別として)モノに変換させた事が重要だろう。



戦闘機というイメージ
その後、フィオナ・バナーは、作家としてスタートする以前から
興味があったという戦闘機を使った作品を制作する。
イギリスのテートブリテンの巨大なホールに巨大な戦闘機がぶら下げられた。
それともう一つの戦闘機はピカピカに鏡面になるまで磨かれて、腹這いにされ置かれた。
それは、説明ではぶら下げられた戦闘機は、鳥かごとしての意味を持ち
同時に捕えられた野獣のようなイメージを持ったり、
邪推してしまうと、女性の作家が戦闘機を使って作品を作るというと、
男性器的なイメージがあるのかと勘繰ったりしてしまうのだが、

Harrier and Jaguar 2010


これは

“For Banner these objects represent the 'opposite of language', 
used when communication fails. ”

“バナーのこれらの作品はコミュニケーションが失敗した時に使われる
「言語とは反対にあるモノ」が表現されている。”

Reference/参照
(http://www.tate.org.uk/britain/exhibitions/duveenscommissionseries/fionabanner2010/default.shtm)

というのは、
イメージから記号を引き出していったという、今までとは逆と言える作業をしたのかもしれない。
はじめにこの戦闘機の名前がHarrier-hawkというのだが、
それを鳥かごや動物かする事によって、
その戦闘機の名前の由来となったMadagascar Harrier-hawk(マダガスカルチュウヒダカ)という
鳥のイメージに戻されているのだ。



イメージから言葉を紡ぎだす
“In bringing body and machine into close proximity she explores the tension 
between the intellectual perception of the fighter plane and physical experience of the object. ”

“近接した吊るされた体と機械の中に、彼女は戦闘機の知性と物体の肉体的経験の間の緊張感を記した。”

戦闘機の、戦争で使われるモノという荒々しいイメージと、
その形・フォルムから来るデザイン性にもイメージの多義性があり、
テキストで戦闘機と書くだけでは表現しきれないモノがやはりあるのである。


そして、
彼女が幼少のころ父親と見た戦闘機が目の前を通り過ぎたと時から心ひかれる存在になったというエピソード。
からは、その通りすぎる一瞬の中で様々な事を想ったかも知れないし、
それを後から語るならば、それは二時間という時間が必要かもしれないモノだという時間性にも
考えが及ぶのだろう。

今回は好き勝手、思考が飛んでしまった。



2012年3月2日金曜日

ある日のサーカスの残響


ティム・ウォーカー Tim Walker
1970年生、イギリス出身、ファッションフォトグラファー。


服が主役ではないファッション写真
カラフルで可愛らしくて、楽しげなのだが退廃的な雰囲気もあるファッション写真を撮る
ティム・ウォーカー。ヴォーグなど有名雑誌の写真を撮るのだが、
服がメインとは思えない。彼の世界観が全面に押し出されていて、
そこがイイ。




"While most fashion shoots might be concerned with make-up, 
clothing and props, Walker’s inventions require 
the inventions of model makers, small creatures 
and surreal landscapes to conjure the surrealist dreamscape works. "

“ほとんどのファッション写真がメイク、洋服、小道具に力を入れる中、
ウォーカーの発明は、
小動物やシュールリアリストの描く白昼夢の風景を取り入れた
背景・セット作りが印象的だ。”

Reference/参照
(http://www.culturecompass.co.uk/2008/06/23/tim-walker-pictures/)

シュールリアリズムな風景、特にルネ・マグリットの描く絵のようだと僕は想像する。



ファンタジー小説からの影響
そして、この世界観はどこからの影響かと、探っていくと、
ティム・ウォーカーの少年時代に読んだファンタジー小説に行きつく、
C・S・ルイスのナルニア物語とルイス・キャロルの不思議の国のアリスだという。
さらには神話や伝説から少年ティム・ウォーカーは
様々な想像力を発揮し、夢を見、それをノートに描き、
大人のティム・ウォーカーがそれをファッション写真という形で
具現化しているという具合だろう。ピーター・パン的な人物なのだろうか。





アイディアの宝箱の様なスケッチブック
その少年ティムが描いた夢をアイディア出しする
ティム・ウォーカーの
スケッチブックがまた興味深い。




選び貼られた写真の色味はやはりティム・ウォーカー色だ。
このイメージ、楽しげだが退廃的と僕は表現したいが
他にはどんな言葉があるかと思ったら、

"The images have a sense of renaissance opulence with a modernist palette, 
and we see echoes of surrealism throughout."

“そのイメージはルネッサンスの華やかさ、絢爛さと
モダニスト・現代の色彩を合わせたセンスを持っている。
我々はシュールリアリズムの残響をみるのだ。”

なんて表現もあったのでメモしとく。


2012年3月1日木曜日

物量にやられる


アイ・ウェイウェイ Ai Weiwei
1957年生、中国出身

アイ・ウェイウェイは沢山の人を動かす、
とにかく自分も他人も多くの人を動かすそんな印象を受ける。
まるで今の中国の力を見せつけるような感じだ、と簡単に言ってしまっても良いとさえ思う。

2010年10月からの半年くらいイギリスのテートモダンで
"Sunflower Seeds"という題名の大規模な展示を行ったアイ。
一億個の陶器でできたヒマワリの種を床に敷き詰めた作品だ。




それはやはり中国を表す。
まずは陶器、陶器は英語でチャイナ
その名の通り、この作品内では中国を暗示するだろう。
一億という巨大な個数もそれを示すだろうし、
ヒマワリという花も毛沢東、文化大革命のイメージを喚起させる、
「毛沢東という太陽に向かって、国民というひまわりが咲く。」という事だろう。

この一億というヒマワリの種の制作を、アイは中国の陶器の制作で有名だった村に依頼する。
そして、約二年間という制作期間でさびれていた村に仕事が出来、
村が豊かになる。六千人という人が一つ一つ手作業で作ったヒマワリの種は村をも復興させる。
圧倒的な個数で。まさにチャイナパワー。

そして、僕はこの時期に中国のアーティストがテートモダンでエキシビションをやったという事に意味があり、
これから中国が世界のトップにドンドンのし上がっていくのかと、何か時代の変化を感じた気がした。
それ程の物量でもあった。

しかし、
アイは中国のポジティブな面だけを主題として扱っているわけでもない。
事実彼は、政治活動家としての面も持ち、
政府によって軟禁状態になっていた事もある。

この作品は中国と言う国の勢いと混乱を表す。

次の引用した文章は、四川大地震の死亡行方不明者の数を公表しろとアイが
政府機関に電話をした時の事だ。

“でも政府は「おまえは誰だ?」と訊き、私は「一個の人間だ」と言いました。
中国では一個の人間としてでは政府の情報を知ることができないようです。”

Reference/参照
(http://www.art-it.asia/u/admin_ed_contri13_j/bL4U0NYtkspS2weWuldJ/)


一億のひまわりの種の展示はパッと一瞬見ただけでは、
個々が何なのか瞬時にはわからない、そこで見る者はその種の中から
一粒、拾って見てみる。ああ、ひまわりの種だと。

一億のひまわりの種から一粒拾うと一億の中の一つになる。



2012年2月29日水曜日

皮膚という境界面


エルネスト・ネト Ernesto Neto
1964年生、ブラジル出身

ネトは布や香辛料や、簡単にいうとストッキングの布の様な素材を
使ってインスタレーション作品を作る。




まず、はじめに、ネトがとあるディスカッションの場でのテーマとして
設定した問いをみてみたい。

“Culture separates, bodies unify.
How can we on a fragmented cultural planet,
topolo-build a level of conviviality and habitability,
beyond institutional skins, under a gravitational field?”

“文化は分離して、肉体は統合されていく。
細分化された文化的な惑星、
重力場の下に組織化された皮膚の向こう側にあり
陽気な高揚感と居心地の良さというレベルでの位相幾何学的構造である惑星の上で
我々はどのように存在できるのか。”


Reference/参照
(http://nicolaanthony.wordpress.com/2012/01/23/ernesto-neto-spaces-of-transformation-edges-of-the-world/)

訳しにくい。というのも、
この文章を前情報なしに理解はしづらい。
まず、位相幾何学ってなんだろう。それを一言で表すのが難しい。
が、この際なので、連続して変化する事とここでは定義してしまいたいと思う。

では、細分化された文化的な惑星とはなにか、
ここでいう惑星とは肉体の事だろうか、
続く、重力場の下に組織された皮膚というのも肉体の事だ。
彼の作品では、ビジュアルを見ると想像しやすいだろうが、
肉体というよりもその内部のスペースが重要だ。

そして、その肉体の外側には、彼の問いの言葉を使えば、
文化、カルチャーがある。
変化し続ける現代文化に対して、
連続し変化していく我々の肉体の内部、例えば精神はどのように変化するのか、
と、大幅な意訳をしてしまえば、とりあえず、納得がつく。



“This question is what Neto attempts to address through his artwork.
Using his bodily sculpture he cuts through any barriers of culture.
The spectator is invited to enter the spaces, tunnels, and crevices of his art.
His porous forms represent an ‘internal landscape’. ”

“この問いはそのまま彼の作品を読み解くという事とつながる。
肉体的な彫刻を使う事で、彼は様々な文化の壁を切り崩す。
それを見る者は彼のアートの場所、トンネル、切れ目に招待される
その穴あきの浸透性のある形は、内部の、(体内の)風景を表現している。”


なるほど、内部風景に見る者は迷い込むのである。
そして、我々は、彼の作品の特徴の一つでもある、
五感を使った表現、例えばそれは、触れて感じる作品、
香辛料を使いニオイのある作品などにより
その作品と一体化していく。

そして、肉体の内部の風景の中に
肉体である私達が入ると、ここで二重構造ないし、三重構造が生まれる。
内に内に世界が広がり、その逆で、外側の世界にも注意が行くのではないだろうか。
外にあるもの文化・カルチャーとはなんだろう。

それは、変化しつづけるモノであり、そして、
彼の作品が提示するように、我々の肉体にぴっちりとくっついて
覆っている、第二の皮膚の様なものなのだろうか。





2012年2月28日火曜日

真夜中の暴露大会



トレイシー・エミン
1963年生、イギリス出身


トレイシー・エミン、彼女の作品の主題は、トレイシー・エミンになる事だ。
Public Persona、公的な人格・仮面としてのアーティスト・トレイシー・エミンを
彼女は次々と発表していく。

しかも、その見せ方と言ったら、
今まで寝た事のある(夢や妄想の中であっても可)男性の名前を
テントの中にズラッーと書きならべてあり、見る者はそのテント、
彼女の秘密の空間とも感じる事の出来る空間で、彼女に関係した男性の名前、
その中には有名人もあり、それを見て我々は、共感したり、ドン引きする事もあるかも知れないが、彼女の事を知っていく。




その他にも、彼女自身のベッドとその周りにあるものを、そのまま持ってきて
展示した、という作品。そこには、下着やたばこだけでなく、コンドームやタンポンなども乱雑に置かれていて、もう自分自身の暴露を見せつけられるのである。



ショッキングでもあり、しかし、その話題性により、彼女はどんどん
メディアに進出して、より有名に彼女のトレイシー・エミンという人格も鮮明になっていく。
彼女が作品やメディアで話す、レイプや妊娠中絶から猫や旅行の話まで
見る者は彼女の全てを知らされていく。

“all is revealed. What remains unknown about Emin?”

“全ては晒される。エミンについて知らない事は残っているのだろうか”

Reference/参照
(http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2011/may/22/tracey-emin-love-hayward-review)

全てを暴露する事によって、作られたトレイシー・エミンという人格は鮮明になるにつれ、
本当のトレイシー・エミン自身の事ははどんどん隠れていく。

それが彼女のねらいなのだろうか。


例えば、ムンクと言えば、「叫び」という作品のあの顔が思い浮かぶと思うが、
エミンの自身のエミン像というのもそれと変わりはない。
見る者は彼女のつらい経験からの現在のセレブリティに成り上がった彼女の仮面に
そして、その仮面の下には悲しみや寂しさの悲鳴が上がっているのかも知れない。
と、彼女を読み解こうとする。

ナルシズム的な作品は孤独だ。

最後に、この彼女の作品はアートなのだろうかという疑問があがるかも知れないが、
この様に答える事もできる。

“this is art because she is an artist.”

“これはアートだ、なぜなら、彼女はアーティストなのだから。”

この逆説的な回答もまた彼女のカリスマ性により
リアリティを持つ。

2012年2月27日月曜日

うさぎはとっても釘とか大鋸屑が好き


ヤン・シュヴァンクマイエル Jan Svankmajer 
1934年生、チェコスロバキア出身


ヤン・シュヴァンクマイエルの作るシュールレアリズムにも分類されるフィルムは
どうにも奇妙で、美しくも不安にさせられる。
そのフィルムはアニメーションやコマドリを使った人形が動く作品が多い。
このコマドリ表現は執拗に使われ、カクカクした動きがさらに不安を煽る。

【シュヴァンクマイエルのアリス 01】


これは、「マニピュレーション、不正操作」という彼の作品のテーマを表す
重要なファクターになっているのだろう。

そして、もう一つ、シュールレアリストの共通の課題である、
フロイト哲学に通じる、さまざまなメタファーがこれでもかと、出てくる。
適当な物が見つからず、Wikiからのクォートだが、
例えば、


作品では「食べる」という行為を頻繁に扱うが、作中に登場する食べ物は不味そうに見えたり、
執拗なまでに不快感を催すような描写がされたりする
(人 物がものを食べるとき、口を画面いっぱいに広がるぐらいにズームして強調する、など)。
こうした描写の理由のひとつとして、
本人が「子供の頃から食べると いうことが好きではなかったからだ」と発言している
(「シュヴァンクマイエルのキメラ的世界 幻想と悪夢のアッサンブラージュ」)。

「食」に関わるもの以外では、性的(エロティック)なメタファーが多く用いられるほか、
両開きのタンス・引き出し付きの木の机・動く肉片や衣装など、
複数の映像作品に繰り返し登場するモチーフが目立つ。
人間の運命や行動が何ものかに「不正操作」されている、
という自身のイメージを投射した作品も数多い。

Reference/参照


フロイトの心理学、夢診断もまた、全ての精神的要因を、
深層心理の、性的なファンタジーに置き換えるのであるが、
シュヴァンクマイエルのフィルムでは、
この本能的な事象を、コマドリを使う事で、
不正操作をされている事が表現されており、
本能までコントロールされてしまうその不安感、
あがないえない、大きなモノへの恐怖が
この不思議の国のアリスを題材としたフィルムを
より不思議にしているのである。


【シュヴァンクマイエルのアリス 02】
【シュヴァンクマイエルのアリス 03】
【シュヴァンクマイエルのアリス 04】

【シュヴァンクマイエルのアリス 05】

【シュヴァンクマイエルのアリス 06】

【シュヴァンクマイエルのアリス 07】

【シュヴァンクマイエルのアリス 08】

【シュヴァンクマイエルのアリス 09】

2012年2月26日日曜日

ぽっかりした丸に吸い込まれる


アニッシュ・カプーア Anish Kapoor
1954年生、インド出身、イギリス在住


建物と建物の間や、緑あふれる草原の中に
突如、まあるい空がある。

sky mirror



その、巨大な作品に潜り込むと、自分が立っている自分の足が接している平面以外の
空間の存在がわけわからなくなる。

cloud gate





などなど、魔術師とも形容されるアニッシュ・カプーア
その代表作の一つのシリーズは、
磨きに磨かれたステンレスの彫刻だ。


”he has explored what he sees as deep-rooted metaphysical polarities:
presence and absence, being and non-being, 
place and non-place and the solid and the intangible.”

”彼は哲学的に深く根差している両義性
存在と不在、実在と非実在、空間性と非空間性、固体と無形などについて考察している。”

Reference/参照


この両義性という物がなるほど上手く盛り込まれている。
これは彫刻立体作品なのだが、見る者はその鏡のような湾曲した平面に映る景色をみるだろう。
鏡面に映る丸い空の存在はどう説明するのか、と哲学的な問いを投げかけてきそうだが、
何よりもぽっかりと丸い空があるなんてビジュアルが面白い。
作品名だって、Sky Mirrar、空の鏡。わかりやすい。
この二つの意味合いを込めるような、絶妙なバランスは
例えば、東洋と西洋の文化の両方か混ぜた感覚なのだろうか。

また、彫刻家としての、形に対してのこだわりの他に
この作家は色に対しても他の作品で面白いアプローチをしているのだ。
が、それは次にしよう。



2012年2月25日土曜日

一瞬を切り取る目


エリザベス・ペイトン Elizabeth Peiton
1965年生、アメリカ出身

エリザベス・ペイトンの描く一連のポートレートは、青春と、時代の雰囲気という
移り変わりやすい一瞬をカメラのシャッターを切るようにとらえた作品だ。

Sid Vicious

彼女のポートレートに描かれた人物は、
例えばローリングストーンズのキース・リチャーズ、
セックスピストルズのシド・ヴィシャス、などのミュージシャンや、
イギリスの画家、デイヴィッド・ホックニーや
マシュー・バーニー、ジェイク・チャップマンという同時代のアーティスト、
その他に、彼氏、友達、家族、自分。などなどが、全て同列に描かれる。
というのは、モデルを立てて、ポーズをとってもらって、描くのではなく、
写真を撮ってそれを元にして描いたり、
有名人の場合、雑誌のフォトグラフィを使うのである。

彼女がその人生でみた輝く人々。
彼女の青春の中の人々の一番まぶしい一瞬を切り取るのである。


”Peyton’s works directly relate to photography. It is their lens-like ability to capture fleeting moments  of light and colour, and to convey both the brightness and the brevity of youth, that give  her paintings their depth and poignancy.”

”ペイトンの作品は直接フォトグラフィーに関係している。
それは瞬間瞬間で変わっていく光や色などを捕えるカメラのような効果を発揮している。
そして、それらは彼女の作品に深淵や激情を与える
青春の明るさや、はかなさの両方を表現しうる。”

Refference/参照



荒い訳しではあるが、
彼女の作品のまぶしいくらいの色使いや瞬間をとらえる絶妙なタッチも良いのだが、
やはり、彼女のその「目」、ファインダーを覗く目線が巧みなのだろう。
そして、その目が人物の先に何をとらえているかという答えとして、



”A painter of modern life, Peyton's small, jewel-like portraits are also intensely empathetic, intimate, and even personal. Together, her works capture an artistic zeitgeist that reflects the cultural climate of the late-twentieth and early-twenty-first centuries.”

”現代生活に根差すペインター、ペイトンの小さく、宝石のようなポートレイトは
熱烈で、共感しやすく、親密で、それでいて個人的だ。
そして、同時に彼女の作品は20世紀後半から21世紀始めの
文化的な雰囲気を反映した時代の精神性を捕えている。。”

Refference/参照


Marc Jacobs / Eminem / Michelle Obama

青春の明るさ儚さ、時代の雰囲気と共に、
彼女の個人的なそのモデルとの関連性は簡単には線引きしがたく
彼女と言う青春からみた、彼女と言う時代からみた人物画であるが故に、
同時代に生きる我々にもおよそ同じ距離で
その絵からモデルを見る事ができ、
共感する事ができるのだろう。
そして、未来の人々にとって、彼女の絵はこの時代をのぞく窓の役割を果たすかもしれない。


ちなみに一つ前に書いたリクリット・ティラバーニャという作家と
結婚していたのだが、今は別れている。


2012年2月24日金曜日

野菜食ってゴー


リクリット・ティラバーニャ Rikrit Tiravanija
1961年生 アルゼンチン生まれのタイ人

しかし、アメリカ、ドイツ、タイなどなど、外交官の父について、
様々な土地、環境、習慣の中で、適応しつつ過ごす、
この作家の作品をみるにはこの彼の遊牧民の様な環境を理解する事が重要である。

一つの文化に深く接する事をしなかった代わりに、
様々な文化と関係し適応たり出来なかったりしてきたのではないかと空想する。




Refference/参照
(http://www.operacity.jp/ag/exh31rt.php)

彼の作品は、リレーショナルアートと呼ばれる
関係性を重視したアートと分類されるだろう。
それは美術館という非日常の空間が演出される場の中に
彼はその土地の料理や彼のアイデンティティの一つであるタイの料理を用意し
展示を見に来た人と食事という日常にある行為を展開する。
その非日常の中に発見される日常の中で
見に来た人は、一緒に来た人と、見に来た他の人と、ティラバーニャと
会話をしたり、なんかワイワイする。
リレーショナルアートの言葉通りにいうと、関係性を持つ。のである。

その場をティラバーニャは作ったのであり、
その場の関係性は参加した人々が作っているのであり、
彼の作品にはタイトルがない、という意味でアンタイトルとなっている。
そして、疑問となるのが、
はたして、この作品の作者とは本当にティラバーニャと言えるのだろうか
と言うところである。

彼は確かにその場を作る為にその土地の料理のレシピを研究し、調理したりと
美術館の中に色々な物が用意はされた。
しかし、一番の重要な要素となる、「人」は外から来て、
なんだったら、その人達がその中で作品となる場の雰囲気を作っていったのだ。

さて、これは冒頭で強調してみた、
彼が色々な環境をグローバルに体験してきた事と関係していく。
それはインターネットなどで世界が密に関係を持ちやすくなった現代、
情報の受信者が簡単に発信者となり、発信者が受信者になりうる時代の反映として、
観覧者が作者に、作者が観覧者にもなりうるという事につながって行き、
ティラバーニャはその土地にある文化と自分が持ってきた文化を
美術館の中でミックスして、さらに人々がその中で場を作っていくという
なんか参加してみたくなる楽しげな展示なのです。




2012年2月23日木曜日

そうだ旅させよう。

 
サイモン・スターリング Simon Starling
1967年生 イギリス出身
 

簡単に説明すると、彼の作品はリサーチをベースにしたアートである。
どういう感じかというと、

彼の作品「Shedboatshed」
というタイトルは、
どう訳しても、[小屋ボート小屋]
って事になる。
 


これを簡単に説明すると、川のほとりにおんぼろの小屋を発見したスターリングは
その小屋、そして、その場所の歴史を調べつつ、
小屋発見時に小屋のトビラの上に船を漕ぐ為のオールがオブジェとして取り付けられてあるのに目をつけ、
「ははーん、ボート屋とか、船、川好きの人が建てたか住んでたんだなぁ。
この小屋にはそういう想いといか想いでというかそんな目に見えない願望があるなぁ。
だば、
この子(小屋)を解体してボートにして、川を下り、川下の美術館に運び、
そこでまた小屋として再建設して、この子(小屋)の願望を成就させよう。」
とかなんとか、そんな事に近い計画を立てたと思うのだが、
 
そうこうして、美術館に小屋が元のままの姿で立った。
これはその小屋がオンボロになるまで川上に立っていた時間と
一時、ボートに変形して、川を移動したという事実と
美術館内に建つまでの膨大なリサーチの時間と
全てがもうスターリングという作家の手を経る事によって
一つの歴史としてあぶり出されボートになるという新しい歴史を付加され
作品にまでなったというのが面白いのだ。
歴史的な事実やエピソードの研究から、過去と未来を繋げる作業というと
しっくりくるのだろうか。



 
スターリング自身は彼の作品をこう説明する。
 
”‘the physical manifestation of a thought process’,
 revealing hidden histories and relationships.”
 
”「隠された歴史や関係性を暴く思考のプロセスの物質的な明示である」”
 
Reference/参照
http://www.tate.org.uk/britain/turnerprize/2005/simonstarling.htm
 
明らかにされていなかった事実にスポットを当て、
リサーチした事をビジュアル的に表した作品なのである。
リサーチを文章などでなく、作品で明示しているのである。
 
そして、僕が感じるこの作家の面白さは、
もちろん過去から未来へという時間的な移動のほかに
この小屋がした空間的物理的にも移動、
いわば旅をしたという事がより事実を強化しているなぁと思うのである。
そう思うとやはり、小屋が立っていて正解なのだ。


 
確かに、
美術館に来て、小屋だけがあり、
横にある数行の説明をみただけでは彼の作品はわかりづらいのかも知れない。
が、
彼の作品の鑑賞とは、彼のリサーチから暴かれ、展開された旅を感じる事であり、
旅のゴールについた作品だけをみて、
「小屋だなぁ。」
と素直になっていては
”ムズカシイ”となってしまうのかも知れない。