2012年2月29日水曜日

皮膚という境界面


エルネスト・ネト Ernesto Neto
1964年生、ブラジル出身

ネトは布や香辛料や、簡単にいうとストッキングの布の様な素材を
使ってインスタレーション作品を作る。




まず、はじめに、ネトがとあるディスカッションの場でのテーマとして
設定した問いをみてみたい。

“Culture separates, bodies unify.
How can we on a fragmented cultural planet,
topolo-build a level of conviviality and habitability,
beyond institutional skins, under a gravitational field?”

“文化は分離して、肉体は統合されていく。
細分化された文化的な惑星、
重力場の下に組織化された皮膚の向こう側にあり
陽気な高揚感と居心地の良さというレベルでの位相幾何学的構造である惑星の上で
我々はどのように存在できるのか。”


Reference/参照
(http://nicolaanthony.wordpress.com/2012/01/23/ernesto-neto-spaces-of-transformation-edges-of-the-world/)

訳しにくい。というのも、
この文章を前情報なしに理解はしづらい。
まず、位相幾何学ってなんだろう。それを一言で表すのが難しい。
が、この際なので、連続して変化する事とここでは定義してしまいたいと思う。

では、細分化された文化的な惑星とはなにか、
ここでいう惑星とは肉体の事だろうか、
続く、重力場の下に組織された皮膚というのも肉体の事だ。
彼の作品では、ビジュアルを見ると想像しやすいだろうが、
肉体というよりもその内部のスペースが重要だ。

そして、その肉体の外側には、彼の問いの言葉を使えば、
文化、カルチャーがある。
変化し続ける現代文化に対して、
連続し変化していく我々の肉体の内部、例えば精神はどのように変化するのか、
と、大幅な意訳をしてしまえば、とりあえず、納得がつく。



“This question is what Neto attempts to address through his artwork.
Using his bodily sculpture he cuts through any barriers of culture.
The spectator is invited to enter the spaces, tunnels, and crevices of his art.
His porous forms represent an ‘internal landscape’. ”

“この問いはそのまま彼の作品を読み解くという事とつながる。
肉体的な彫刻を使う事で、彼は様々な文化の壁を切り崩す。
それを見る者は彼のアートの場所、トンネル、切れ目に招待される
その穴あきの浸透性のある形は、内部の、(体内の)風景を表現している。”


なるほど、内部風景に見る者は迷い込むのである。
そして、我々は、彼の作品の特徴の一つでもある、
五感を使った表現、例えばそれは、触れて感じる作品、
香辛料を使いニオイのある作品などにより
その作品と一体化していく。

そして、肉体の内部の風景の中に
肉体である私達が入ると、ここで二重構造ないし、三重構造が生まれる。
内に内に世界が広がり、その逆で、外側の世界にも注意が行くのではないだろうか。
外にあるもの文化・カルチャーとはなんだろう。

それは、変化しつづけるモノであり、そして、
彼の作品が提示するように、我々の肉体にぴっちりとくっついて
覆っている、第二の皮膚の様なものなのだろうか。





2012年2月28日火曜日

真夜中の暴露大会



トレイシー・エミン
1963年生、イギリス出身


トレイシー・エミン、彼女の作品の主題は、トレイシー・エミンになる事だ。
Public Persona、公的な人格・仮面としてのアーティスト・トレイシー・エミンを
彼女は次々と発表していく。

しかも、その見せ方と言ったら、
今まで寝た事のある(夢や妄想の中であっても可)男性の名前を
テントの中にズラッーと書きならべてあり、見る者はそのテント、
彼女の秘密の空間とも感じる事の出来る空間で、彼女に関係した男性の名前、
その中には有名人もあり、それを見て我々は、共感したり、ドン引きする事もあるかも知れないが、彼女の事を知っていく。




その他にも、彼女自身のベッドとその周りにあるものを、そのまま持ってきて
展示した、という作品。そこには、下着やたばこだけでなく、コンドームやタンポンなども乱雑に置かれていて、もう自分自身の暴露を見せつけられるのである。



ショッキングでもあり、しかし、その話題性により、彼女はどんどん
メディアに進出して、より有名に彼女のトレイシー・エミンという人格も鮮明になっていく。
彼女が作品やメディアで話す、レイプや妊娠中絶から猫や旅行の話まで
見る者は彼女の全てを知らされていく。

“all is revealed. What remains unknown about Emin?”

“全ては晒される。エミンについて知らない事は残っているのだろうか”

Reference/参照
(http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2011/may/22/tracey-emin-love-hayward-review)

全てを暴露する事によって、作られたトレイシー・エミンという人格は鮮明になるにつれ、
本当のトレイシー・エミン自身の事ははどんどん隠れていく。

それが彼女のねらいなのだろうか。


例えば、ムンクと言えば、「叫び」という作品のあの顔が思い浮かぶと思うが、
エミンの自身のエミン像というのもそれと変わりはない。
見る者は彼女のつらい経験からの現在のセレブリティに成り上がった彼女の仮面に
そして、その仮面の下には悲しみや寂しさの悲鳴が上がっているのかも知れない。
と、彼女を読み解こうとする。

ナルシズム的な作品は孤独だ。

最後に、この彼女の作品はアートなのだろうかという疑問があがるかも知れないが、
この様に答える事もできる。

“this is art because she is an artist.”

“これはアートだ、なぜなら、彼女はアーティストなのだから。”

この逆説的な回答もまた彼女のカリスマ性により
リアリティを持つ。

2012年2月27日月曜日

うさぎはとっても釘とか大鋸屑が好き


ヤン・シュヴァンクマイエル Jan Svankmajer 
1934年生、チェコスロバキア出身


ヤン・シュヴァンクマイエルの作るシュールレアリズムにも分類されるフィルムは
どうにも奇妙で、美しくも不安にさせられる。
そのフィルムはアニメーションやコマドリを使った人形が動く作品が多い。
このコマドリ表現は執拗に使われ、カクカクした動きがさらに不安を煽る。

【シュヴァンクマイエルのアリス 01】


これは、「マニピュレーション、不正操作」という彼の作品のテーマを表す
重要なファクターになっているのだろう。

そして、もう一つ、シュールレアリストの共通の課題である、
フロイト哲学に通じる、さまざまなメタファーがこれでもかと、出てくる。
適当な物が見つからず、Wikiからのクォートだが、
例えば、


作品では「食べる」という行為を頻繁に扱うが、作中に登場する食べ物は不味そうに見えたり、
執拗なまでに不快感を催すような描写がされたりする
(人 物がものを食べるとき、口を画面いっぱいに広がるぐらいにズームして強調する、など)。
こうした描写の理由のひとつとして、
本人が「子供の頃から食べると いうことが好きではなかったからだ」と発言している
(「シュヴァンクマイエルのキメラ的世界 幻想と悪夢のアッサンブラージュ」)。

「食」に関わるもの以外では、性的(エロティック)なメタファーが多く用いられるほか、
両開きのタンス・引き出し付きの木の机・動く肉片や衣装など、
複数の映像作品に繰り返し登場するモチーフが目立つ。
人間の運命や行動が何ものかに「不正操作」されている、
という自身のイメージを投射した作品も数多い。

Reference/参照


フロイトの心理学、夢診断もまた、全ての精神的要因を、
深層心理の、性的なファンタジーに置き換えるのであるが、
シュヴァンクマイエルのフィルムでは、
この本能的な事象を、コマドリを使う事で、
不正操作をされている事が表現されており、
本能までコントロールされてしまうその不安感、
あがないえない、大きなモノへの恐怖が
この不思議の国のアリスを題材としたフィルムを
より不思議にしているのである。


【シュヴァンクマイエルのアリス 02】
【シュヴァンクマイエルのアリス 03】
【シュヴァンクマイエルのアリス 04】

【シュヴァンクマイエルのアリス 05】

【シュヴァンクマイエルのアリス 06】

【シュヴァンクマイエルのアリス 07】

【シュヴァンクマイエルのアリス 08】

【シュヴァンクマイエルのアリス 09】

2012年2月26日日曜日

ぽっかりした丸に吸い込まれる


アニッシュ・カプーア Anish Kapoor
1954年生、インド出身、イギリス在住


建物と建物の間や、緑あふれる草原の中に
突如、まあるい空がある。

sky mirror



その、巨大な作品に潜り込むと、自分が立っている自分の足が接している平面以外の
空間の存在がわけわからなくなる。

cloud gate





などなど、魔術師とも形容されるアニッシュ・カプーア
その代表作の一つのシリーズは、
磨きに磨かれたステンレスの彫刻だ。


”he has explored what he sees as deep-rooted metaphysical polarities:
presence and absence, being and non-being, 
place and non-place and the solid and the intangible.”

”彼は哲学的に深く根差している両義性
存在と不在、実在と非実在、空間性と非空間性、固体と無形などについて考察している。”

Reference/参照


この両義性という物がなるほど上手く盛り込まれている。
これは彫刻立体作品なのだが、見る者はその鏡のような湾曲した平面に映る景色をみるだろう。
鏡面に映る丸い空の存在はどう説明するのか、と哲学的な問いを投げかけてきそうだが、
何よりもぽっかりと丸い空があるなんてビジュアルが面白い。
作品名だって、Sky Mirrar、空の鏡。わかりやすい。
この二つの意味合いを込めるような、絶妙なバランスは
例えば、東洋と西洋の文化の両方か混ぜた感覚なのだろうか。

また、彫刻家としての、形に対してのこだわりの他に
この作家は色に対しても他の作品で面白いアプローチをしているのだ。
が、それは次にしよう。



2012年2月25日土曜日

一瞬を切り取る目


エリザベス・ペイトン Elizabeth Peiton
1965年生、アメリカ出身

エリザベス・ペイトンの描く一連のポートレートは、青春と、時代の雰囲気という
移り変わりやすい一瞬をカメラのシャッターを切るようにとらえた作品だ。

Sid Vicious

彼女のポートレートに描かれた人物は、
例えばローリングストーンズのキース・リチャーズ、
セックスピストルズのシド・ヴィシャス、などのミュージシャンや、
イギリスの画家、デイヴィッド・ホックニーや
マシュー・バーニー、ジェイク・チャップマンという同時代のアーティスト、
その他に、彼氏、友達、家族、自分。などなどが、全て同列に描かれる。
というのは、モデルを立てて、ポーズをとってもらって、描くのではなく、
写真を撮ってそれを元にして描いたり、
有名人の場合、雑誌のフォトグラフィを使うのである。

彼女がその人生でみた輝く人々。
彼女の青春の中の人々の一番まぶしい一瞬を切り取るのである。


”Peyton’s works directly relate to photography. It is their lens-like ability to capture fleeting moments  of light and colour, and to convey both the brightness and the brevity of youth, that give  her paintings their depth and poignancy.”

”ペイトンの作品は直接フォトグラフィーに関係している。
それは瞬間瞬間で変わっていく光や色などを捕えるカメラのような効果を発揮している。
そして、それらは彼女の作品に深淵や激情を与える
青春の明るさや、はかなさの両方を表現しうる。”

Refference/参照



荒い訳しではあるが、
彼女の作品のまぶしいくらいの色使いや瞬間をとらえる絶妙なタッチも良いのだが、
やはり、彼女のその「目」、ファインダーを覗く目線が巧みなのだろう。
そして、その目が人物の先に何をとらえているかという答えとして、



”A painter of modern life, Peyton's small, jewel-like portraits are also intensely empathetic, intimate, and even personal. Together, her works capture an artistic zeitgeist that reflects the cultural climate of the late-twentieth and early-twenty-first centuries.”

”現代生活に根差すペインター、ペイトンの小さく、宝石のようなポートレイトは
熱烈で、共感しやすく、親密で、それでいて個人的だ。
そして、同時に彼女の作品は20世紀後半から21世紀始めの
文化的な雰囲気を反映した時代の精神性を捕えている。。”

Refference/参照


Marc Jacobs / Eminem / Michelle Obama

青春の明るさ儚さ、時代の雰囲気と共に、
彼女の個人的なそのモデルとの関連性は簡単には線引きしがたく
彼女と言う青春からみた、彼女と言う時代からみた人物画であるが故に、
同時代に生きる我々にもおよそ同じ距離で
その絵からモデルを見る事ができ、
共感する事ができるのだろう。
そして、未来の人々にとって、彼女の絵はこの時代をのぞく窓の役割を果たすかもしれない。


ちなみに一つ前に書いたリクリット・ティラバーニャという作家と
結婚していたのだが、今は別れている。


2012年2月24日金曜日

野菜食ってゴー


リクリット・ティラバーニャ Rikrit Tiravanija
1961年生 アルゼンチン生まれのタイ人

しかし、アメリカ、ドイツ、タイなどなど、外交官の父について、
様々な土地、環境、習慣の中で、適応しつつ過ごす、
この作家の作品をみるにはこの彼の遊牧民の様な環境を理解する事が重要である。

一つの文化に深く接する事をしなかった代わりに、
様々な文化と関係し適応たり出来なかったりしてきたのではないかと空想する。




Refference/参照
(http://www.operacity.jp/ag/exh31rt.php)

彼の作品は、リレーショナルアートと呼ばれる
関係性を重視したアートと分類されるだろう。
それは美術館という非日常の空間が演出される場の中に
彼はその土地の料理や彼のアイデンティティの一つであるタイの料理を用意し
展示を見に来た人と食事という日常にある行為を展開する。
その非日常の中に発見される日常の中で
見に来た人は、一緒に来た人と、見に来た他の人と、ティラバーニャと
会話をしたり、なんかワイワイする。
リレーショナルアートの言葉通りにいうと、関係性を持つ。のである。

その場をティラバーニャは作ったのであり、
その場の関係性は参加した人々が作っているのであり、
彼の作品にはタイトルがない、という意味でアンタイトルとなっている。
そして、疑問となるのが、
はたして、この作品の作者とは本当にティラバーニャと言えるのだろうか
と言うところである。

彼は確かにその場を作る為にその土地の料理のレシピを研究し、調理したりと
美術館の中に色々な物が用意はされた。
しかし、一番の重要な要素となる、「人」は外から来て、
なんだったら、その人達がその中で作品となる場の雰囲気を作っていったのだ。

さて、これは冒頭で強調してみた、
彼が色々な環境をグローバルに体験してきた事と関係していく。
それはインターネットなどで世界が密に関係を持ちやすくなった現代、
情報の受信者が簡単に発信者となり、発信者が受信者になりうる時代の反映として、
観覧者が作者に、作者が観覧者にもなりうるという事につながって行き、
ティラバーニャはその土地にある文化と自分が持ってきた文化を
美術館の中でミックスして、さらに人々がその中で場を作っていくという
なんか参加してみたくなる楽しげな展示なのです。




2012年2月23日木曜日

そうだ旅させよう。

 
サイモン・スターリング Simon Starling
1967年生 イギリス出身
 

簡単に説明すると、彼の作品はリサーチをベースにしたアートである。
どういう感じかというと、

彼の作品「Shedboatshed」
というタイトルは、
どう訳しても、[小屋ボート小屋]
って事になる。
 


これを簡単に説明すると、川のほとりにおんぼろの小屋を発見したスターリングは
その小屋、そして、その場所の歴史を調べつつ、
小屋発見時に小屋のトビラの上に船を漕ぐ為のオールがオブジェとして取り付けられてあるのに目をつけ、
「ははーん、ボート屋とか、船、川好きの人が建てたか住んでたんだなぁ。
この小屋にはそういう想いといか想いでというかそんな目に見えない願望があるなぁ。
だば、
この子(小屋)を解体してボートにして、川を下り、川下の美術館に運び、
そこでまた小屋として再建設して、この子(小屋)の願望を成就させよう。」
とかなんとか、そんな事に近い計画を立てたと思うのだが、
 
そうこうして、美術館に小屋が元のままの姿で立った。
これはその小屋がオンボロになるまで川上に立っていた時間と
一時、ボートに変形して、川を移動したという事実と
美術館内に建つまでの膨大なリサーチの時間と
全てがもうスターリングという作家の手を経る事によって
一つの歴史としてあぶり出されボートになるという新しい歴史を付加され
作品にまでなったというのが面白いのだ。
歴史的な事実やエピソードの研究から、過去と未来を繋げる作業というと
しっくりくるのだろうか。



 
スターリング自身は彼の作品をこう説明する。
 
”‘the physical manifestation of a thought process’,
 revealing hidden histories and relationships.”
 
”「隠された歴史や関係性を暴く思考のプロセスの物質的な明示である」”
 
Reference/参照
http://www.tate.org.uk/britain/turnerprize/2005/simonstarling.htm
 
明らかにされていなかった事実にスポットを当て、
リサーチした事をビジュアル的に表した作品なのである。
リサーチを文章などでなく、作品で明示しているのである。
 
そして、僕が感じるこの作家の面白さは、
もちろん過去から未来へという時間的な移動のほかに
この小屋がした空間的物理的にも移動、
いわば旅をしたという事がより事実を強化しているなぁと思うのである。
そう思うとやはり、小屋が立っていて正解なのだ。


 
確かに、
美術館に来て、小屋だけがあり、
横にある数行の説明をみただけでは彼の作品はわかりづらいのかも知れない。
が、
彼の作品の鑑賞とは、彼のリサーチから暴かれ、展開された旅を感じる事であり、
旅のゴールについた作品だけをみて、
「小屋だなぁ。」
と素直になっていては
”ムズカシイ”となってしまうのかも知れない。
 
 
  

2012年2月22日水曜日

酸化した思い出


リチャード・セラ Richard Serra
1939年生、アメリカ出身

リチャード・セラのキャリアは1960年代のアメリカで活発化する
ミニマリズムの中でその初期が始まる。
しかし、
ミニマリズムと分類ももちろんできるが、

その作品が表現する物は、やはり
サイトスペシフィック(特定の場所に設置される事を
前提として作られる)な作品と言う事に限るだろう。

後期の彼の作品は特にその大きさに圧倒される
巨大なのである。
巨大な鉄の板がガンガンと垂直に立っていたり、
優雅な曲線をたたえてそびえている。



Promenade




”(His work)emphasizes materiality and
 an engagement between the viewer, the site, and the work.”

”(彼の作品は)素材の力と、見る物と場所と作品の間の関連性を重要視する。”

Refference/参照
(http://www.moma.org/visit/calendar/exhibitions/14)

まさにその巨大な作品は、都市のビル街の真っただ中に突然そびえたち、
見る物はその中をさまよう事もできる。
大きさとサイトスペシフィックな機能を見ると

その作品はまさに彫刻というよりも彫刻に近い建築物のような様だ。

そして、
わざと表面に錆をつける事によって
それは制作の過程での出来事を定着させる事
思い出や時間を表現する事に成功している。

これをもって彼の作品はモニュメントと良く言われるが、
土地やその場所、そしてそこにある人々の思いを反映していく
記念碑ともいえるのである。


2012年2月21日火曜日

欲望の機械の詩


レベッカ・ホルン Rebecca Horn
1944年生、ドイツ出身

彼女の個展は2009から2010にかけて三ヶ月半くらい
東京都現代美術館でやっていたのを、どの日だったか見たのであるが、
素晴らしかった記憶がある。
Refference/参照
(http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/107/)

作品の種類は、彫刻、写真、フィルムなどなど多岐にわたるのだが、
今回は彫刻作品、その東京都現代美術館の展示でも、多分目立っていた
だろう、ピアノの彫刻作品を見たい。


アナーキーのためのコンサート


天井から逆さにつられたこのピアノは
簡単に言うと、欲望を、エロスを表しているという見方が出来る。
第一にピアノは女性的なのだ。

それが天井から逆さに吊るされて、
何分に一度、ジャーンとピアノの音が叫んで、
ピアノの蓋が開き、鍵盤がビョーンと出てくる。
これはそのまま、エロティックな表現としてみていいのだろう。

彼女の作品には知覚や身体性や欲望といったキーワードがみられる。

”machines that mimic the mechanisms of desire, 
they betray the longings beneath the surface of everyday things. 
Often erotically charged, 
these works express anthropomorphic anxiety and sensuality.”

"欲望のメカニズムを模倣した機械。
これらの作品は、日常の事物の下に隠れた熱望に背き、
しばしば、官能的にみなぎっている。
それらは、熱望や官能を
機械で擬人化される事によって表している。"

Refference/参照
(http://www.tate.org.uk/servlet/ViewWork?workid=26592&tabview=text)

と訳して適当だろうか??

機械(ここではピアノ)が普段日常で期待されている効果、
(鍵盤を押したら、音がでる楽器と言う効果)に背き、
通常ではありえない配置のされかたで
全く異なる官能的な効果を発揮している。
そして、2,3分に一度というのも、どこか生物的な待ち時間なのである。
絶え間なくジャンジャカ鳴っているのではなく
しばしの静けさの後、
ジャーンと官能が広がるのです。


調べていて、みつけた文章で

”最近は、めっきり現代美術作家で
「詩」を持った機械を作る人が減ってしまった。”

”機械は人間に対し、ふたつの仕事をする。
物理世界に対する仕事と、精神的に対する仕事だ。
精神に対して仕事をする機械には詩がある。”
Refference/参照
(http://maywa.laff.jp/blog/2009/12/post-b189.html)

という言葉を見た。
レベッカ・ホルンのアナーキーのためのコンサートには
そんな詩がある。


2012年2月20日月曜日

球体関節人形と詩の融合


ハンス・ベルメール Hans Bellmer
1902年生、ドイツ出身


ベルメールはシュールレアリズムの運動の中で
特に球体関節人形の作品で有名だ。



しかし、ただ人形を作ったのではなく
彼の作品は足があって、腰があって、
その腰からまた、足が生えていたり、
肩から腕の代わりに脚が生えていたり、
全てのパーツがバラバラになっていたり。
およそ、子供のサディスティックな衝動のような
狂気めいた雰囲気が漂っている。

ここでは、
何故、彼の作品の人形が、
バラバラになっているのか、探ってみた。

それは、まず彼の出身がドイツで
時代が世界大戦の時代だという所に起因していく。

彼が作家として初期の人形を作り始めた時、
ドイツにはベルリンの壁が出来たりして、
政府の情報統制が厳しくなっていった。
人々は手紙を書く際にも、本心を書けずにいた。

そして、ベルメールなどは、
その中の本当の意味をバラバラに配置し、
それを意味不明に近い詩として、
その情報統制から逃れようとしたのだ。


そのバラバラな文字が、
人体に置換され、ある種の異様な形となり
彼の球体関節人形は色気を帯びていったのである。


いわば、アナグラムのシステムを持って、
ビジュアルアートに応用したのだ。




2012年2月19日日曜日

明日、もし小人になったら


ロン・ミュエク Ron Mueck
1958年生、オーストラリア出身、イギリスで活動中。

Refference/参照
(http://www.albatro.jp/birdyard/illustration-art/ron-mueck/index.htm)

ロン・ミュエクは、その綺麗でグロテスクなほど精巧なリアリスティックな人体彫刻を
作る作家である。ハイパーリアリスティックとも分類される。

その彫像は何よりもリアルで上手い。びっくりするほど上手なのだが、
その質感を人体に限りなく近づけていったミュエクは、
その代わりにその彫像のサイズを、何倍にも大きくしたり
30㎝ほどの小さなものにしたりして、
その本物なのに本物ではない、ありえそうなのにありえない
違和感を創出するのである。

写真だとやはり対比となる見ている人がいるとより良い。






さて、どうやったら、この質感を表せるんだろうと検索していくと、
ここに、ロン・ミュエクがやった新しい技術が発見される。
まま、第一人者なのかは定かではないのだが、
彼は、柔らかで肌の質感を出すにはちょうどいい、シリコーン
(例えば、特殊メイクなどで使う皮膚みたいなものだろうか。)
と、
強くて軽くて細部の形まで移すことが可能なレジン、いわゆる樹脂
(歯科技工などの分野でも使われるような物)
を混ぜ合わせて、
粘土で作った彫像をかたどりするのである。

粘土でつくる塑像も、普段、日本の美大彫刻科で教わるような
表面に指の痕跡を残したりして表現する物のではなく、
化粧などで使う、きめの細かいスポンジなどに
水分を含ませて、がっつり撫でて表面をテカテカにしたりするのだと推測される。
そこにはもちろん大変な技術が必要なのだが、
そこにシリコーンとレジンの混ぜ合わせたもので型をとる前後に
アクリル絵具なのでの着彩がものすごく上手いのであろう。



僕もやろうとしたけど挫折しました。